「愛国心」問題に思う
「愛国心」漢字でわずか3文字、辞書を紐解いても「自分の国を愛する心」としか出てこない言葉であるが、今政界・マスコミ・教育界などにおいて、この言葉を巡る戦いが巻き起こっている。
いわゆる「教育基本法改正問題」である。以前にはこの問題に関し、日教組の犬反対派の教育者の面々によるデモが行われたりしていたようだが、昨日与党である自民・公明両党の間で一定の合意がされたとの事で、この問題はひとまずの決着がつくようだ。
そもそも「愛国心」とはどういった類のものなのか。今日決定された与党案の前文には「公共の精神」という言葉が使われているが、「愛国心」の本質とはまさにこれなのではないだろうか。「公共の精神」というと「ボランティア」などの言葉が浮かぶが、その違いはベクトルの方向が「国」か「社会」かというだけの差であろう。
ところがこの国において、「愛国心」という言葉は長らくタブーとされてきた。それはご承知の通り、20世紀半ばに日本と諸外国の間で起こった戦争において、この言葉が時の軍部により利用されてきたからだ。だが、この言葉はあくまで「利用された」のであって、「愛国心」という言葉自体が悪い意味を持っているわけではない事は明らかである。
それなのに、世の中にはこの言葉を聞いただけで「危険」だの「軍国主義だ」などという連中がいる。特定の観念に囚われ、モノの本質を捉える事ができなくなってしまったのだ。彼らの論理で考えるなら、昨今の中国や韓国などは日本にとって危険極まりない国であるはずなのだが、不思議な事に彼らはそういう国々にとって都合のいいような行動ばかりとる。一般に彼らは「サヨク」と呼ばれる連中だが、全くもってお笑い草である。
ところで、この問題では「愛国心の定義」の他、「法律で『愛国心』を規定するべきなのか」についても議論が行われていた。確かに「心を法で規定する」というのは、憲法云々はともかくとしても少々難のある話だろう。だが逆に考えれば、現状は「愛国心」あるいは「公共の精神」を法で規定しなければならないところまできている、というように受け取る事はできないだろうか。
「公」とは「個人ではなく、組織あるいは広く世間一般の人との関わり」であり、同時に「国」とは、現代の人間社会で機能している集団・組織の中では最大のものである。古くから集団生活を基本とする農耕民族としてやってきた我々日本人にとって、この「公」という感覚は身近なものであった。これまで長らくの間「公」は日本人の特性の象徴であり、また美徳でもあったはずなのだ。
だが戦後「愛国心」という言葉がタブーとされて以来、教育界はそれに代わるものを、「公共の精神」を、十分に子どもたちに教えてきただろうか。戦後50数年を経て「公」の意識は崩壊しつつあり、その度合いは近年さらに加速しているように思われるのだが。
現在、日本の社会においては「私」が「公」を凌駕するようになり、自己中心的な人間が溢れ、人は自分以外の世界に対して無関心になってきている。近年問題視されている「ニート」などはまさにこの典型だろう。だが、親・教師を含め、それを注意できる人間は最早ほとんどいなくなってしまった。何故なら彼らもまた「公」という概念を十分に教えられてこなかったからだ。
政府が今回の教育基本法改正に際し、その中に「愛国心」や「公共の精神」を盛り込もうとしている一連の動きは、言うなればこれまでの戦後教育の否定、教育者たちに対しての「ダメ出し」なのではなかろうか。よって、冒頭で紹介した反対派の連中のデモなども「自分のケツに火が着いているのに、何を見当違いの主張をしているのやら」と感じてしまうのである。
まぁ、最初から「『公共の精神』を教育基本法に盛り込む」という話であれば、おそらくこの問題はここまでのものにならなかったのではないか、とも思うのだが。そこにはまた別の意図があるのだろうがね。
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