週のはじめに考える 『上から目線』と論説
【「上から目線」が新聞離れの理由-そんな新聞批判にドキリとさせられました。意外だったからではなく、胸中の懸念への端的な指摘だったからです。
女性評論家によるその「新聞時評」は、本紙にではなく毎日新聞に載ったものですが、見過ごせなかったのは手厳しい批判が新聞全体に及ぶものだったからです。
◆厳しい新聞離れ診断
なるほどかつての新聞と現在の最大の相違点は署名記事が当たり前になってきたことでしょう。しかし、女性評論家はコラムもどきがいささか過剰ではないかとの疑問を投げ、米国のオバマ新大統領就任演説に絡んでの一連の記事や使用されている語句のなかに「上から目線」を感じ、読んでいて「あんたら何様」という気分になったというのでした。
重大なのは「今では新聞という媒体全般にこの種の不遜(ふそん)な空気が漂っている」との指摘と「そのことへの嫌悪感が日本人の『新聞離れ』をひきおこしている」との診断でした。
もちろん新聞は記者のために存在するのではありません。政治家や会社経営者や役人のためでもなく読者のためのものです。そのことを忘れた新聞は見捨てられる。耳に痛いけれど肝に銘じなければならない忠言でした。
新聞の目線と立ち位置がどこかという点で気になったのは、日本郵政の「かんぽの宿」売却をめぐる各紙の主張と報道です。少なからずの新聞の記事や社説に迷走・曲折が見受けられたからです。
かんぽの宿売却問題は鳩山邦夫総務相の異議申し立てが問題化の発端でした。わたしたちの主張は「譲渡の不透明さを晴らせ」。用地取得や建設費に二千四百億円かけた宿泊施設の譲渡額が百九億円というのは不可解極まりないものでした。
◆かんぽの宿の迷走曲折
たとえ七十施設一括売却の手続きに不正や瑕疵(かし)がなく、従業員の雇用を守るために仕方がなかったとしても、たたき売り同然の官業ビジネスの反省のなさと無責任に国民の納得は得られないとも考えたからでした。
ところが在京紙の社説の多くは鳩山総務相の異議に疑問を差し挟むものでした。たしかに許認可権をもつ総務相のクレームが全く問題なしとも思えません。不当な強権発動なのか適切な指導なのかのデリケートな問題が含まれていますが、それを論ずる前にまずは日本郵政が国民の素朴な疑問に答えるべきだというのがわたしたちの立場で国民目線と信じました。
売却問題は、日本郵政が専門家による検討委員会を立ち上げ、一括売却を撤回することで各紙の論調も変わってきましたが、内心の忸怩(じくじ)たる思いは消えません。こうした問題こそ新聞が発掘し追跡するテーマではないのかとの内なる声が聞こえるからです。
社会保険庁の消えた年金記録問題でも経験した同じ苦い思いで、メディアがこの種の問題に取り組めなかったら、中央省庁に記者クラブを置き権力を監視する本来の意味が失われてしまいます。
テレビ政治と世論調査による首相・総裁選びが常態化するなかで新聞の役割と責任があらためて問われています。安易な「民意の反映」にこそ民主主義の危機を見る識者や読者たちからです。
大義なき戦争と内外から批判されることになるイラク戦争も二〇〇三年の開戦時のブッシュ前米大統領への支持率は71%の熱狂でした。一年後に政権を放り出すことになる安倍晋三元首相の支持率も小泉純一郎、細川護熙各首相に次ぐ歴代三位の高さでした。民意は危うく移ろいやすくもあります。
その民意についてメディア史の佐藤卓己京都大学大学院准教授は「輿論(よろん)と世論(せろん)」(新潮選書)のなかで、「輿論」が「世論」となった戦後社会の危機と病理を浮かび上がらせます。
戦前までは、公的に議論された理性的意見の「輿論」と私情の「世論」とは峻別(しゅんべつ)されました。戦後の当用漢字使用制限で「輿論」は「世論」におきかえられ、意味内容にも混同してきた経緯を明らかにしたうえで「輿論の復興」を訴えます。
民主主義には世間の雰囲気に流されない公的意見が不可欠で、新聞こそそのための公器であるべきだ-というのです。
◆風雪に耐える輿論づくり
白川静の「字統」では「輿」は四隅に手をかけ輦(てぐるま)を担ぐ形。気分にすぎない民意ではなく、人々に賛同され風雪に耐えられる意見づくりが論説の使命なのでしょう。
仕事や家事・育児に忙殺される国民は代表者に未来やあるべき社会の議論、運営を委ねる民主主義システムをつくりました。その重要な一翼を担いたいものです。時には百万人といえどもの気概で】
先日「毎日新聞コラム2/5~変態に「志」などあってたまるか!」で、毎日新聞の論説委員が政治報道のあり方について自問自答しているコラムを紹介しましたが、今日の東京新聞社説にはアレと同じニオイを感じました。最初に自分たちの報道姿勢について反省する雰囲気をかもしながら、他社を引き合いにして「だが俺たちは違うんだ!」と」主張し、最後には「俺たちがやらねば誰がやる!」という結論で締めくくる。長々と書かれた駄文は一周したのち、結局何も変わっていないというどーしよーもない話です(笑)。「新聞は公器」とか「気分にすぎない民意を導く」とか、そうしたマスゴミの思い上がりこそが「上から目線」の記事を生み出す元である事に、彼らが気づく日は来るのでしょうか?
そもそもメディアが営利団体であり、それぞれが意思と主張を持っている事を考えれば、彼らの意見が「公正である」などとはとても言えません。事実、近年インターネットによってメディアの問題点が次々明るみになり、それが現在メディア不況と呼ばれる事態を生み出したのですから。毎日新聞は昨年、変態記事騒動も絡んで相当の減益となりましたが、どうやらこの分ですと東京新聞も彼らの後を順調に追って行きそうですね。めでたい事です。
【関連】事件報道のあり方 見直します 裁判員制度開始を前に
「これまでの報道はバランスに欠けておりました」と自ら吐露するようなものですね。そもそも裁判員制度に反対の立場を取っている東京新聞に期待する事はそれほどありませんが、「報道のあり方を見直す」と仰るならまず、在日外国人の犯罪や野党議員の問題言動、自分のところの社員の不祥事など、これまで「都合が悪いから」と報道を差し控えていた部分を報道するところから始められるべきでしょうな。
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