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2011年5月24日

東京新聞コラム5/24~全ての想定など不可能である

東京新聞「筆洗」5/24付

【例えば、どこかの組織で不祥事が起きる。そういう際の釈明のコメントで頻出するのが「あってはならないこと」という台詞(せりふ)だ▼まったく想定外の出来事だ、と強調する表現だが、その意識こそが不都合な事象を隠す、いや、見ないようにさせてしまう面がある。人は「存在してはいけない」ものは存在していない、と思いたがる▼愛知県の女子高生の自殺をめぐる損害賠償訴訟で、名古屋地裁が最近、彼女が中学時代に受けたいじめと、四年後の自殺との因果関係を認める判断を示した。それを訴え続けてきた原告の母親の思いが実った形である▼判決は、いじめの事実を認め、学校側がそれを「いたずら」としか見ていなかったとすれば、いじめ問題に対する認識不足だと断じた。中学校側は控訴したが、あらゆる学校に、いじめなど「あってはならない」の意識が強いのは確かだ。その“呪縛”が見えなくさせているかもしれぬ悲劇を思う▼原発にも通じる。原発推進の旗の下、地震や津波で電源が喪失し、炉心溶融が起こるといった想定は不都合の極みだ。「あってはならない」の意識が、あり得るはずの危険性を見ないようにさせてきた気がするもし、福島の事故のような危険性が“見えて”いたら、原発推進の前提など翻っただろう。そして、それは「あるかもしれない」という目で見ていたら見えたはずだ

 このコラムの中の「想定」という言葉、これを私たちは震災後、特に原発事故に絡んで、非常に多く見聞きしてきたんじゃないかと思います。曰く「『想定外』なんてのは詭弁」「あらゆる事態を想定していれば事故は防げたはずだ」など。確かに、今度の福島第一原発の事故について、東電の非常時の想定に甘さがあった事は否定できませんでしょう。

 …ですが、「実際に事故が起きてしまったじゃないか!」という批判を承知で書きますけど、この「想定」について特に原発反対派は、一体どこまでを「想定」したら「十分」として認めるというのでしょう?よく引き合いに出されるのは869年に発生した貞観地震、つまり「千年に一度の地震だって想定しろ」という話ですけど、中には「マグニチュード15くらい平気でないと」なんて意見もあったようです。しかしマグニチュード15なんて、地震どころか地球という惑星自体がどうにかなってしまうくらいのエネルギーですよ。そうした規模の災害、例えば惑星衝突などに見舞われて粉々になってしまった地球、しかしその破片が漂う宇宙空間で無傷の原発が稼働している様を思い浮かべると何だかシュールですが、さすがに「千分の一でも万分の一でも、とにかく確率がゼロでない事象は全て想定しろ」みたいな弁は、非現実的であると言わざるを得ません。

 だいたい、そんな「地球がぶっ壊れるような災害でも耐えられる」原発が仮に完成したとして(実証はまずムリでしょうが)、それで原発反対派の皆さんは「これなら大丈夫だ」本当に納得されるんですか?思うに「人間のやる事だから『100%安全』は絶対にあり得ない、危険性がゼロでないのならそれを認めるワケにはいかない」とか言い出して、結局は認めないんじゃありませんでしょうかね?特にメディア等に露出までして原発反対を訴えているような方々は、原発の安全性がどうというよりも「原発そのものに反対」という方が多そうな気がしますのでね…他人様にはあれやこれやと難題を突き付けながら、自分は譲歩する気は一切ないというのは、主義主張がどうこうという以前に、人としてどうかと思うのですが。

 重ねて書きますが、人間のやる事に「100%」は絶対あり得ないのです(もちろんそこに近づけるための努力は必要ですが)。なのにそれを要求しようという方々には、この世に「100%安全」というものが本当に存在するのか、まずはそれを是非示して頂きたいとも思います。不完全なものがあふれているこの世界において、千分の一・万分の一の可能性をいちいち気にしていたなら、とても生活などままなりませんでしょう。そんな中で原発にだけ100%を要求する皆さん、それは単にアナタ方の好みの問題に過ぎないのではありませんかな?

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