その他の部分が気になります
【6日の原爆の日を前に、戦時中、日本に強制連行されるなどして原爆の犠牲になった韓国人の慰霊祭が、5日、広島市で開かれ、被爆2世のシン・ヒョングン韓国総領事も初めて参列しました。
慰霊祭は、広島市の平和公園にある韓国人の慰霊碑前で行われ、ことし広島に赴任した被爆2世のシン・ヒョングン韓国総領事も初めて出席しました。
式には200人余りが参列し、この1年間になくなった7人を加えた2663人分の韓国人の死没者名簿を慰霊碑に納め、全員で黙とうを捧げました。
シン総領事は「韓国人の原爆犠牲者に対して、心よりご冥福をお祈り申し上げます。原子爆弾が、この地球上で使用されてはならないという亡くなった人たちの叫びが聞こえてくるようです」と述べました。
主催者によりますと、広島では、朝鮮半島から強制連行されるなどした2万人以上が原爆で死亡したとされ、慰霊祭は、ことしで42回目になります。
参列者は、最後に全員で慰霊碑に花をささげ、亡くなった人たちを悼んでいました】
>主催者によりますと、広島では、朝鮮半島から強制連行されるなどした2万人以上が原爆で死亡したとされ
【参考】大半、自由意志で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人(昭和34年7月13日朝日新聞)
【在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。
これによれば在日朝鮮人の総数は約六十一万人だが、そのうち戦時中に徴用労働者として日本に来た者は二百四十五人にすぎないとされている。主な内容は次の通り。
一、戦前(昭和14年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約百万人で、終戦直前(昭和二十年)には約二百万人となった。増加した百万人のうち七十万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの三十万人は大部分工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令によるものはごく少数である。また、国民徴用令は日本内地では昭和十四年七月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ昭和十九年九月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関--釜山間の運航が止るまでのわずか七ヶ月間であった。
一、終戦後、昭和二十年八月から翌年三月まで、希望者が政府の配給、個別引き上げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和二十一年三月、連 合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で三百五十人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち七十五%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計六十一万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労働者としてきた者は二百四十五人に過ぎず、現在日本に居住している者は、犯罪者を除き、自由意志によって残留した者である】
「など」という言葉は、代表例に対して使うものですよねぇ。徴用労働者245人のうち、原爆で亡くなったのは何人なんですか?んでもって、残る2万人近い朝鮮人は?
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