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2011年9月 2日

東京新聞社説9/2~反原発派の責務

「脱原発」を堅持しよう 日本の未来のエネルギー

【猛暑の夏が過ぎていく。どうやら、原発に依存しない暮らしのかたちも見えた。本当に豊かな未来のために、脱原発の方向性はこのまま堅持するべきだ。

 九月に入り、朝晩の空気はめっきり涼しくなった。

 首都圏も東北も、そして名古屋も、記録的猛暑といわれた夏を、ほぼ原発に頼らずに乗り切った。

 東京電力と東北電力管内の電力使用制限令は、九日までに前倒しで解除になる。中部電力管内では、自動車業界の土日操業効果もあって、百万キロワット、中型原発一基分の電力が節約された。

◆原発に依存しない夏

 原発なしでは、産業も暮らしも立ちゆかないという、経済産業省と電力業界挙げての強い“警告”も、どうやら杞憂(きゆう)に終わりそうな気配が強い。むしろ生活者の間には「原発なしでもいけそうだ」という自信がわいたのではないか。身の回りの電気のむだを洗い出し、電力に依存し過ぎた暮らしを見直すきっかけがつかめたのではあるまいか。LEDの普及など、省エネ型の社会基盤整備にも弾みがついたのではないか。

 脱原発路線を打ち出した菅直人首相が退陣し、新しい内閣がきょうにも発足する。

 野田佳彦新首相は「原発を新設しない」としながらも、「安全性を確認した原発を活用し、電力の安定供給を確保する」と、再稼働容認の立場を鮮明にしており、民主党代表選に出馬した五人の中で、脱原発からは最も遠いといわれている。脱原発、脱原発依存路線からの後退、あるいは揺り戻しを心配する声も高くなっている。

 菅内閣末期には「原子力ムラ」の巻き返しがささやかれ、定期検査などで停止中の原発を拙速に再稼働させようとする動きが活発になってきた。だが、菅内閣の総評はさておいて、脱原発の方向性は、福島第一原発の惨状を目にした多くの国民に、一定の評価を受けている。国民の意思と願いが込められた脱原発の金看板を、そう簡単に掛け替えるべきではない。

 事故後、間もなく半年になる。経産省原子力安全・保安院は、福島第一原発から飛散した放射性セシウム量が、広島型原爆百六十八個分に上ることを公表した。文部科学省の調査では、土壌汚染の最高濃度は一五〇〇万ベクレル以上に上る。徐々に明らかになる放射能汚染の実態は予想以上に深刻で、広範囲にわたっており、避難の長期化は避けられない。

◆発送電分離は不可避

 風評被害も後を絶たず、桃や稲作農家の悩みは深い。牛たちは野生化し、作付けのできない田畑、ふるさとの風景は荒れていく。

 損害補償の基準だけはようやくできた。賠償総額は数兆円規模に上るというが、廃炉費用を含めればゼロが一つ増えるとの見方もある。いずれにしても、東京電力が独りで担える額ではない。電気料金の値上げも含めて、そのツケは国民すべてにのしかかる。原発は高くつく。安全上も経済的にも、あまりにリスクが高すぎる。

 再稼働できたとしても、原発の新設は将来にわたって不可能だ。放射性廃棄物処分場の立地もままならない。既存の原子炉の寿命が尽きれば、原発はいずれにしても“安楽死”させる以外にない。

 その意味で、脱原発は後退ではなく進化である。

 国内の総発電量に占める原発の割合は三割弱、二、三割の節電が不可能ではないことは、この夏実証された。その上に太陽光や風力などの自然エネルギーや廃熱利用を上積みすれば、私たちは今より豊かになれる。

 自然エネルギーの全量買い取りを電力会社に義務づけた再生エネルギー特別措置法が成立し、大手がしのぎを削る太陽光以外の風力、小型水力発電分野にベンチャー企業の進出が盛んになった。技術革新も進んでいる。

 自然エネルギー市場を安定させるには、真の電力自由化が欠かせない。

 特措法には「円滑な供給の確保に支障が生ずる場合」には、買い取りを拒否できるという抜け穴が開いている。これをふさぐ必要がある。そして大手電力会社の地域独占を廃し、発電事業と送電事業を分離させ、いつ、どこからでも自然エネルギーによる電力が家庭や事業所に送り届けられる環境を整えるべきである。欧米にできて、日本にできないわけがない。

◆国家百年の計として

 電源の地域分散、電気の地産地消が可能になれば、建設にも維持管理にも巨額の費用がかかる原発は自然にいらなくなるはずだ。

 私たちの暮らしを守り、安心を取り戻し、有望な新産業の育成を図るため、新内閣には百年先を見据えた、新たなエネルギー政策を示してほしい。脱原発こそ、国家百年の計である】

【参考】東京新聞コラム8/20~「電力は足りている」と言えますか?

 「天候が不安定だった今夏、何とか原発なしで乗り越えられたからといって『原発なしでも大丈夫だ!』と短絡的に触れまわってもいいものか」という点については、上の参考記事の中で書いていますのでそちらを参照頂くとして、今日この文章を読んで私が思うのは「東京新聞はこれまで、原発推進派をさんざん批判してきたのに、連中と同じ過ちを犯しているのだなぁ」という事です。例えば推進派は、火力発電を「二酸化炭素が出るので環境に悪い」とし、原子力を「未来のエネルギー」だと言ってきました。そして、それを東京新聞は「広報戦略などで原発を『よいもの』とイメージ操作し、放射能などのデメリットを矮小化した」などと批判してきたワケなのですが、ここで「火力」と「原子力」をそれぞれ「原子力」と「自然エネルギー」に置き換えたらどうなるでしょうか?

 いくら東京新聞ほか反原発派が自然エネルギーをもてはやそうと、自然エネルギーにはコストや電力の安定供給においてまだまだ問題も多く、その解決には時間が必要です。そうしたデメリットを全く語らずに「これからは自然エネルギーだ、脱原発だ」と良いイメージだけを植え付けようというのは、推進派がこれまでやってきた手法と何ら異なるものではないではありませんか。推進派を否定し、「脱原発」の国民的議論を行いたいとするならば、原子力と自然エネルギー、これら両方のメリットとデメリットを天秤にかけた上で、国民に判断を求めるというのがスジではないですかな?

 電力需給を心配する産業界の声も、「紀憂」などという言葉で片付けるべきではありません。被災地復興のための予算も自然エネルギーの環境を整えるための予算も、原資は基本的に税金であり、それは企業活動の中から生み出されるものです。それが滞ると何が起こるかは、頭の中がお花畑でもなければ誰でも判る話だと思いますのでいちいち書きませんが、とりあえず今夏、電力使用制限令によって企業の生産活動にどれだけの損失が生じたのかは、「原発をどうするか」という国民的議論をする際の資料のひとつとして、しっかり検証すべきものでしょう。

 空き缶は「脱原発」を唱え、その方針は国民に一定の評価を受けました。しかし、それにもかかわらず国民からの支持は低迷し、ついに先日退陣へと追い込まれたワケです。「脱原発」という言葉自体、空き缶が自身を守るための方便であった疑いは濃厚ですけど、結局のところ脱原発という目標に対して現実的な道筋を示す事ができなければ、国民はついていけないという話なのでしょう。それは、反原発派の責務と言えるのではないかと思うのですが、「脱原発こそ国家百年の計」などと述べながら、東京新聞らはその内容については完全に他人任せですよね?皆さんは言葉だけじゃなく、たまには自身の責任というものも考えられてはいかがです?

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