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2011年9月20日

東京新聞社説9/20~今さら反省も生ぬるい

メディアと政治を考える 自由な言葉あってこそ

【政治家の発言をメディアが報じることで現実の政治が動く。そんな事例が相次いでいる。分かりやすい結末を追い求める落とし穴にはまっていないか。

 鉢呂吉雄前経済産業相が一連の「問題発言」の責任をとる形で大臣を辞任したのは、就任わずか九日目だった。

 問題とされた発言は二つある。まず九日の会見で福島第一原発周辺の地域を「人っ子一人いない。まさに死の町」と呼んだ件。次いで、同日夕から翌朝にかけて一斉に報じられた「放射能をうつしてやる」という記者への発言だ。

◆しゃくし定規の息苦しさ

 後者の放射能発言は鉢呂氏が原発周辺の自治体視察から東京・赤坂の議員宿舎に帰ったとき、宿舎のエントランスで記者団に囲まれた際に語った発言である。

 鉢呂氏は記者との懇談を非公式なものと認識しており「発言内容自体も正確には覚えていない」と釈明している。録音記録も残っていないようだ。

 いずれの発言も大臣として不適切な発言として批判を浴びて、当初は説明を尽くす考えだったが、放射能発言が報じられた十日夜になって結局、辞任を表明した。

 たしかにテレビカメラも入った会見で「死の町」という表現は適切とは言えない。ただ、絶対に許されないほど不穏当だったかと言えば、議論の余地は残る。

 後に明らかになったことだが、細川律夫前厚生労働相も五月の参院行政監視委員会で民主党議員の質問に答えて「町全体が本当に死の町のような印象を受けました」と語っている。

 本紙を含めて新聞も「ゴーストタウン」という表現を使ってきた。「死の町」はだめだが「ゴーストタウン」ならいい。そんなしゃくし定規な議論が広がるようになっては、なんとも息苦しい。

◆言葉狩りのメカニズム

 放射能発言も気になる点がある。発言があったのは八日夜だが、同夜も翌朝もメディアは一行も報じていない。ところが、九日の「死の町」発言が明らかになった後の同日夕からテレビ、新聞が大きく報じ始めた。

 そこには「批判スパイラル」とも呼ぶべきメディアの特性がある。いったん批判の標的を見つけると、さらなる批判の材料を追い求め、スパイラル(らせん)状の軌道に乗ったかのように一斉に標的を追い詰めていくのだ。

 メディア各社はみな激しく競争している。一社が書けば、他社が後追いする。そこには多少の疑問があっても一応、批判の輪に加わらなければ、それ自体が意図的な報道回避と受け取られかねないという懸念も働いている。

 発言があった日から一日遅れになった今回の放射能発言報道は、そんなメディア全体の電子回路にスイッチが入ってしまったような展開だったのではないか。

 どんなタイミングでどんな内容を報じるかは、メディアの裁量である。たとえ非公式なオフレコ発言であったとしても「報じるに値するかどうか」の判断はメディア自身に任されるべきだ。それは言論報道の自由と不可分である。

 その点を指摘したうえで、多くのメディアが「批判スパイラル」一色に染まっていく状況を恐れる。それは言論や価値判断の多様性という社会の根幹をむしばむ事態につながりかねないからだ。

 それぞれのメディアが自由に判断した結果、同じような報道のトーン、価値判断に陥っていくとすれば、なおさらである。「批判スパイラル」が実は「同調の言葉狩り」になってしまう。それは多様性の尊重とは真逆の事態と言ってもいい。

 批判スパイラルを加速させた背景には「問題はいずれ国会で大騒ぎになる」という判断がある。そういう見通しを織り込んだ記事もあった。メディアだけにとどまらない。鉢呂氏自身も辞任に際して、その点を考慮しただろう。

 ともに「国会で問題になる」という見通しを前提にして、メディアは記事を書き、政治家は身の処し方を考える。結果があっけない大臣辞任という幕切れだった。

 問題発言で大臣が辞めたのは、菅直人政権で二〇一〇年十一月に辞任した柳田稔元法相、ことし七月に辞任した松本龍前復興相に続いて三人目だ。輿石東幹事長は放置できないとみて、情報管理を徹底する方針を打ち出した。

◆不自由さが自殺行為に

 問題発言がメディアで批判され、国会紛糾を恐れるあまり、大火事になる前に先手を打って大臣を辞める。そんな展開が当たり前のようになってきた。

 自戒を込めて書く。メディアも政治家も少し冷静になろう。考える時間が必要だ。言葉で仕事をしているメディアや政治家が、言葉に不自由になってしまうようでは自殺行為ではないか

【参考】東京新聞コラム9/14~もう首は絞まってます

 先週の1面コラムでは「失言の追及ばかりでは、メディアは自らの首を絞めることになるだけだ」と述べてたのを、また今日の社説でも(しかも普段の倍のスペースを割いて)「言葉で仕事をしているメディアや政治家が、言葉に不自由になってしまうようでは自殺行為ではないか」ですか。よっぽど「脱原発」を表明していた鉢呂のクビを飛ばしちゃったのがショックだったんでしょうねー。まぁ前回も述べましたけど、政権交代以前に今回と同じようなえげつないやり方でさんざん自民を攻撃しておきながら、いざ逆の立場に置かれたら急に戒めの言葉を口にするというのは、卑劣というより他に言葉がありません。まして自民政権と民主政権とでは、明らかに後者の方が国益や民主主義、政治家の資質といったものに影響があると思われる問題発言が増えているのですから尚更です。

 以下、「2ちゃんねる」のスレより抜粋→【参考】完璧なジャーナリストが日本に存在しています(「U-1速報」様)

【306:木道 ◆VEkb2cSbK2 :2011/09/11(日) 18:09:39.35 ID:8FL2Sq0d

 >>274
 私、常々言わさせてもらっているのですが、「報道」と「言論」の区別が付かない方がちょっと多いですね。
 「今日は晴れていました」
 ↑間違いなく報道です。
 「雨が降ってほしいと思っています」
 ↑間違いなく言論です。
 「今日は晴れていましたが、雨が降ってほしいと思っています」
 ↑報道と言論の区別が付かなくなりました。
 こういう報道が多いんですね。
 「長年、自民党の政権が続いていましたが、政権交代が起きて欲しいと思っています」
 ↑どこまでが報道で、どこまでが言論なのか訳が分かりません。
 ついには、自分の主張・言論を「報道」と言い出す始末。

 そんなので良いんだったら、私だって「ジャーナリスト」を名乗りますよw
 広島県内における民主党とその支持者の動向(主に梶川関係)への「取材」は中国新聞社よりディープな取材をしていますよ。
 かなり、詳細な事を書けと言われれば書けますよ。
 (梶川を超える「柴崎美智子」とかいう凄いのが実は居たんですけど、何やってたとか書きましょうか?)
 まぁ、書きませし、恥ずかしいから、そんな肩書きを名乗りたくはありませんが。

 338:日出づる処の名無し:2011/09/11(日) 18:21:14.03 ID:7lcg5P+l

 >>306
 むしろ木道さんのお目にかなった「ジャーナリスト」なんているんですか?

 376:木道 ◆VEkb2cSbK2 :2011/09/11(日) 18:34:17.66 ID:8FL2Sq0d

 >>338
 気象衛星ですね。
 
http://www.jma.go.jp/jp/gms/
 ↑完璧なまでの「報道」の姿です。
 「報道」を基に、この「報道」の意味を分析・整理・発表するのが「言論」です。
 
 気象衛星は「本当なら、この時期、ここに台風が無いとおかしいんだよね」とか、絶対に言いませんよ。
 もう、完璧です

 「反省した」と言っただけで何かが変わるというものでもないでしょう。東京新聞は自らの報道姿勢を自戒して、その後具体的にどうすると言うのです?

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