朝日新聞社説11/10~改めるべきはサヨク
【反原発デモを企画した市民に思わぬ壁が立ちはだかった。
これまでと同じく、国会や官邸に近い日比谷公園にまず集まろうとしたら、管理する東京都が不許可にしたのだ。裁判所でも認められず、あす11日のデモは中止となった。国会周辺での抗議活動だけにするという。
憲法が定める「集会の自由」はどこにいってしまったのか。
裁判所が訴えを退けた理由はいくつかある。
数万人の人出が予想される別の催しが、同じ日に公園で開かれる▽集合場所とされる広場では、市民団体が見こむ1万人は入りきらない▽現に7月に同様の集会があったときに、一部で混乱を招いた――などだ。
別の公園利用者に迷惑がかからぬよう、不許可をふくめ、一定の調整がなされること自体を否定するつもりはない。
見すごせないのは、都が最近になって、園内では有料の大音楽堂と公会堂以外での集会を禁止すると言い出したことだ。ずっと大目にみてきたが、本来の決まりどおりにするという。
市民の集会やデモの抑えこみをねらった、運用方針の改悪であるのは明らかだ。
裁判所は判例を踏まえ、「当日の公園の利用状況や収容能力を前提とする限り、不許可もやむを得ない」と述べているのであって、包括的な規制にお墨付きを与えたわけではない。
過去に若干の混乱があったとしても、締めだしに走るのでなく、次はそうならぬように主催者とともに手立てを講じる。それが、市民を助け、支える自治体のとるべき道ではないか。
他者とふれあい、情報を交換することによって、人びとは考えを深めることができる。集会やデモは意見を形づくる場であるとともに、その成果を表明する有効な手段だ。それはネット時代にあっても変わらない、大切な基本的人権である。
憲法学者から最高裁判事になった故・伊藤正己氏は、似たような問題が争われた裁判で、こんな意見を述べている。
道路、公園、広場などの「パブリック・フォーラム」が表現の場所として用いられるときには、所有権や管理権にもとづく制約を受けざるを得ない。しかし、そうだとしても、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要がある――と。
30年近く前の見解だが、その価値は色あせない。
いや、議員による間接民主主義が十分に働かず、国民の声を政治に反映させる回路を築き直さねばならない今だからこそ、かみしめるべき指摘である】
何でサヨクってのは、憲法だの権利だのと「法」を前面に出してくるクセに、その「法」が自分たちの思うとおりに働かないとブチブチ文句を言うワケ?
>市民の集会やデモの抑えこみをねらった、運用方針の改悪であるのは明らかだ
デモの騒音や交通規制で迷惑している人たちにしてみれば「都はやるべきことをやっただけ」という話になりますが。
>過去に若干の混乱があったとしても、締めだしに走るのでなく、次はそうならぬように主催者とともに手立てを講じる。それが、市民を助け、支える自治体のとるべき道ではないか
何で都が放射脳どもの尻拭いまでせにゃならんと?問題が起きないよう対策を講じなきゃならないのは、全面的に場所を借りる側であるのは当たり前でしょうに。自分たちで管理ができないなら、そういう活動をそもそも主催するなと。
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